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万満寺|馬橋と関係の深かった小林一茶
馬橋と関係の深かった小林一茶

 小林一茶は、江戸時代に活躍した三大俳人の一人です。その他の二人は、松尾芭蕉と与謝蕪村です。
 小林一茶は信濃国水内郡柏原(野尻湖の近く)で百姓の子として生まれ、15歳のときに、家庭の事情により、江戸に奉公に出されることになります。一茶がどこに奉公し、どのようにして俳句とかかわってきたか明確には判っていないようです。資料的に判明するのは、一茶が25歳の頃からで、それ以前の10年間は謎とされているようです。  

 この謎の10年間、一茶は馬橋に奉公し、馬橋で、俳諧を学んだのではないかと、推量する説があります。といいますのは、当時の馬橋村に、俳人で油商人の大川平右衛門という人が住んでおりまして、25歳以降の一茶の資料から、一茶が父とも慕う間柄であったことが判明しております。一茶はこの大川さんの下で働き、俳句の薫陶を受け、やがてその才能が多くの仲間に認められることになったのではないか、と考えられております。(中津悠子著 下総歴史人物伝)  

 大川平右衛門さんの家は、馬橋駅東口徒歩5分の商店街(旧水戸街道沿い)の一角にあったということですが、現在では跡形もなくなっており、代わりに、松戸信用金庫馬橋支店とスーパーライフ馬橋店が立ち並んでおります。松戸信用金庫馬橋支店の前面の空地の左端隅に、松戸市による史標がひっそりと立つのみとなっておりますが、もし、大川家がいまでも残っていれば、馬橋にとっての貴重な財産ではなかったかと思われます。父とも慕う大川平右衛門が亡くなって後、一茶は流山の俳人で味醂醸造家の秋元双樹宅をたびたび訪れることになりますが、現在秋元家は流山市により復元され、一茶双樹記念館として甦っております。大川家が今でも現存していれば、馬橋にとって貴重な観光資源、文化資源となっていたことでありましょう。  

 大川平右衛門さんの俳号は立砂(りゅうさ)といったそうです。俳諧、葛飾派今日庵二世の森田元夢の弟子で、後に、史標にも記されるように、栢日庵(はくじつあん)の庵号を得て、松戸周辺の俳壇の頭領となり、多くの弟子たちを指導する立場になります。  

 松戸市域で俳諧が盛んになったのは、江戸中期の1772年(安永1年)頃からといわれております。(松下邦夫著松戸の歴史案内)  この時期の俳諧は、都市の発展、それに伴う商品経済の発展、富裕層の成長、と共に、富裕層間の交流の中で、富裕層の高尚な趣味、娯楽として広まっていったように思われます。一茶、立砂をとりまく周辺を考えてみましても、名前が出てくるのはそのような人達でした。北小金本土寺僧侶可長、流山の味醂(みりん)醸造家双樹、布川の下級武士元夢、回船問屋月船、田川の富農曇(どん)柳斉、守谷の僧侶鶴老等々。一茶は下総の地域のこのような人々の間をくまなく長期にわたって繰り返し繰り返し訪ね歩いていたようです。大川家はそのような一茶の下総歩行の中継地点、気楽に休むことができる宿泊先であったようです。(15年間で宿泊日数55回とも59回とも言われております)。と同時に、精神的な安らぎの場所でもあったようです。立砂は1799年、一茶37歳のときになくなりますが、一茶は運良く臨終に立ち会うことになり、追悼文の「挽歌」冒頭の中で、立砂が一茶にとって他の誰よりも特別な存在であったことを次のように述べています。

 「栢日庵(はくじつあん)はこの道に入り始めてよりのちなみとして、交わり他にことなれり」

 また、一茶と立砂は二人連れ立って、当時秋の紅葉(もみじ)で有名な市川市国府台の、千葉商科大学に隣接する真間山弘法寺(ぐほうじ)に、紅葉狩りをしたそうですが、そのとき二人は次のような句を詠みました。二人の心の通いを彷彿とさせる句のやりとりです。(1798年10月10日、一茶36歳)

  夕暮れの 頭巾(ずきん)へ拾(ひろ)ふ 紅葉哉(かな)  大川立砂
  紅葉ばや 爺(じい)はへし折(おれ) 子は拾ふ       小林一茶

  大川平右衛門こと立砂は菩提寺法王山万満寺に葬られ、大川家は、子の大川斗囿(とゆう)に継がれていきますが、残念ながら大川家はその後の事業の失敗により、斗囿の代をもってつぶれ、明治末には、墓碑も整理され、無縁仏として葬られてしまったとのことです。今では、一茶、立砂、斗囿の三人関係を偲ぶ痕跡を発見することはできなくなってしまいまた。現在でも馬橋東口旧街道沿いに、旧家が軒を連ねておりますが、そのうちの何軒かのお宅に、わずかながらの短冊等の三人のゆかりの遺品を確認できるのみと聞いております。

■この当時の歴史の移り変わり
1762年 将軍家治、万満寺に70石の朱印状を下付する。江戸川にて洪水発生。思い余った松戸の百姓、根本の堤を切る。それが原因で乱闘となり、死傷者が出る。
1763年 小林一茶、信濃国水内郡柏原村に生まれる。幼名は弥太郎。
1767年 西新田役所内の猪を追い払う。中野牧で火災発生。野馬捕り人足の煙草の火が原因。
1769年〜
1773年
大雨、大干ばつ等により不作。
1772年 田沼意次、老中になる。江戸、行人坂に大火あり。このころ、松戸市域の俳諧盛んになる。大川平右衛門、布川に住む老我(後の元夢)に弟子入り。老我は淀藩稲葉家の下級家臣。深川の下屋敷との間を行き来する。深川には彼の師、馬光、素丸が居住。布川は米の裏作として、菜種を栽培。この菜種が油商人大川家と関係したのではないかと推測。
1774年 松戸河岸にて火災発生。松竜寺脇本陣から小山浅間宮まで全焼。
1776年 アメリカの独立宣言。日光御社参の大名松戸宿を通過する。
1777年 小林一茶(15歳)、江戸へ奉公に出る。この後10年間一茶の消息不明。江戸開府以来の大洪水。幕府、奉公稼ぎを禁止する。
1778年 千駄堀村の畑、猪と鹿に荒され、大きな被害を受ける。水戸家役所に訴える。
1780年 水戸家鷹狩を行う。仙台中将松戸に宿泊。
1781年 水戸家鷹狩りを行う。関所が火災に遭う。上州にて、絹一揆起こる。
1782年 葛飾派森田元夢の門人大川立砂、判者を許される。「はいかいまつの色」出版。序文は葛飾派3世素丸が書く。
1783年 水戸家鷹狩りを行う。7月6日浅間山の大噴火。大雨。江戸川上流から家財道具が流れてくる。どろ川と化し、夥しい死人が流れてくる。この年冷害となる。
1784年 田沼意次の子、意知、殺される。
1786年 田沼意次、老中職を免職。徳川家治死去。松平定信が老中になる。将軍家斉、万満寺に70石の朱印状を下付。水戸家の鷹狩。
1787年 小林一茶(25歳)、二六庵竹阿に入門。寛政の改革始まる。江戸市中にて打ちこわしあり。(天命の打ちこわし)東国一帯に広まる。金ヶ作彦次右衛門、荒地開発のため、金ヶ作役所より助成金を受ける。
1788年 小林一茶(26歳)、葛飾派今日庵元夢に入門。フランス革命始まる。徳川家斉、万満寺に70石の朱印状を下付。
1789年 小林一茶(27歳)、奥州行脚。この年から一茶の句確認される。郡代、平潟の飯炊き女について訊問する。水戸家鷹狩。
1790年 二六庵竹阿、没。一茶(28歳)、素丸に入門。寛政異学の禁。この年大干ばつ。水戸家鷹狩。水戸殿小金宿泊。
1791年 小林一茶(29歳)、「寛政3年紀行」の旅に出る。
1792年 小林一茶(30歳)、西国へ旅に出る。古ヶ崎村役人と百姓が対立する。郡代を廃止する。古ヶ崎、主水の堤を切る。
1793年 金ヶ作役所野馬方、岩本石見守支配となる。野馬の焼印、牧毎に区別。
1794年 将軍の御鹿狩のため、旗等を下付。
1795年 3月5日、将軍家斉小金原にて御鹿狩。獲物は猪132疋。小金牧の総野馬数、5013疋。
1798年 小林一茶(36歳)、江戸に戻り、「さらば笠」刊行。10月10日大川立砂と一緒に、真間山弘法寺に紅葉を見に行く。
1799年 小林一茶(37歳)、甲斐越後へ出発。立砂、竹の花まで見送る。一茶二六庵を継ぐ。大川立砂死亡。一茶臨終に立ち会う。幕府、蝦夷地巡視に出発。
1800年 今日庵元夢死亡。
1801年 小林一茶(39歳)、帰郷。5月21日父死亡。幕府、伊能忠敬に沿岸測量を命ずる。
1813年 一茶(51歳)故郷柏原に帰る。柏原に定住する。翌年、初めて結婚。
1827年 一茶、柏原にて死亡。65歳。
1833年 斗囿、死亡
文 石川博光


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